2025年
ーーー6/3−−− 売れますよ
仕事柄、自分で使う小さな生活小物を、木工で自作することがある。そういう物を、たまたま何かの機会に人に見せると、「これ、売れますよ」などという反応を示されることが多い。木工品だけでなく、蕎麦を打って人に差し上げても、同じような事を言われる。商品として売ったらどうかという意味である。そう言われて、嬉しくないことは無い。作った当人がそのつもりでなくても、商品として通用する品物であると言ってもらえるのは、嬉しいことではある。また、自分が「こんな物」と謙遜しても、他人から見れば魅力がある、価値がある、つまり立場が違えば見方が違う、ということに気付かされることもある。
それはさておき、品物に対する印象を、たちどころに「売れる」ということに繋げるのは、少々違和感を覚える。気難しい性格と思われるかも知れないが、そんな事で金を稼ぐつもりなど無いし、また、た易くできない事なのである。私は、物を作って売るというのは、簡単な事ではないと肝に銘じている。他人に物を買って貰うというのは、様々なハードルの先の世界である。「これ、売れますよ」と言われても、空しく響くだけなのである。
さらに付け加えるなら、品物の価値を金銭的にとらえるのは、世の一般であるが、勝手ながら、品物の価値はその実態、本質で受け止めて頂きたいと思ったりする。職人が喜ぶのは、お金では無く、品物に対する的を得た褒め言葉なのである。
職人の性が出て、いささか頑迷に過ぎた。相手は、「これ、売れますよ」で好意的に、プラスの評価をしてくれているのだから、素直に受け止め、違和感は受け流せば良いだけのことであろう。
ーーー6/10−−− 神は人を試す
この春、木工機械で指を切る怪我をしたことは、3月の記事に書いた。怪我をした二日後、マツタケ山のメンバーの飲み会があった。私は、大袈裟な包帯を巻いたまま参加した。指先を切った経緯を話したら、ある人が、「去年は足の骨折、今回は指の怪我と、不運な事が続いているね。大竹さんが信じているキリスト教の神様は、大竹さんを守ってくれないのかな?」と言った。
それに対して私は、「神は人を試すものです」と答えた。
相手は「へぇー、そうなんですか」と半信半疑の様子だった。すると脇で聞いていた人、キリスト教とは無縁の人が、「そうです、神様は人に試練を与えるんです。しかし、その人が乗り越えられないような試練は与えないのです」と言った。
ちなみに、当初は「元通りに治るのだろうか」と心配した指の怪我だったが、およそ3ヶ月経った現在、ほぼ跡形もなく完治し、機能的な障害も残っていない。
ーーー6/17−−− 果樹園のマドンナ?
4月中旬から5月一杯、安曇野市三郷地区の果樹農園でアルバイトをやった。今年で3年目になる。圃場のメインはリンゴ園だが、梨園も一部ある。この時期の作業は、摘花と摘果。花や小さな実を間引いて、大きく果実を育てるための作業である。果樹園の仕事は、日ごとの時間勝負である。樹は人の都合に関係なく生育し、花が咲き、葉が繁り、実が膨らむ。その折々のタイミングに合わせて作業をしなければならない。そこで、一時期に集中して人手が必要になる。私のような臨時雇いのアルバイトは、不可欠なのである。
農園主の家族にアルバイトを加えて、5、6人体制で朝8時から夕方5時まで作業をする。それでも人手が回らないことがあり、今年はうちのカミさんにも声が掛かった。彼女は主婦業があるので、フルタイムは無理。半日(午前中)だけ働くということで話がまとまった。現場は、猫の手も借りたいのである。と言うか、農園主によれば、小柄な女性は地面に近い部分の作業に適しているので、むしろ助かるとのこと。
以前も、女性が作業に参加したケースがあった。今回と同様に、身内、仲間の人材である。しかし、女性はトイレの問題があって、なかなか難しい。圃場にはトイレが無いので、用を足すには、車で公共のトイレがある場所まで行かなければならない。それが面倒なので、水分を控えたりすると、体に良くない。カミさんもその点が一番気になったようである。そこで、トイレポンチョなる物を購入して、対応することにした。実際には、そんな目隠し道具を使わずに、適当に済ませることが多かったもよう。わざわざ見る人もいないだろうし。
午前と午後に15分ずつ、休憩時間がある。昨年までは、農園主がおやつを出してくれた。ところが、それを準備するのが難しくなってきたらしく、今年は賃金におやつ代を上乗せして、各自が持ってくることになった。持ち寄ったおやつを分けて食べるという形である。そこでカミさんは張り切って、毎日のようにシフォンケーキや、菓子パン、揚げドーナツ、プリンなどを作って持って行き、メンバーに振る舞った。かえって押し付けがましくなってはいけないと、当初は気になったりしたが、ご一同は気兼ねもないようで、ただ「美味しい!」と言って、喜んで食べてくれた。カミさんはちやほやされて存在感を増し、だんだん私の影は薄くなっていった(元々薄いが)。
5月の終わりになり、全ての作業が済んだとき、私は農園主に「家内は、少しはお役に立ったでしょうか?」とたずねた。すると、「おおいに助かった。凄い集中力で、たいした働きぶりだ」と応えた。そして、「普段から野菜の栽培や庭木の手入れをしているという話を聞いていたが、そういう事が好きだから、作業が早く的確なのだろう」とも言った。そして「私よりも役に立ったんじゃないですか?」と自嘲的な発言をしたら、「そんなことはないですよ」と笑っていたが、そばで聞いていたメンバーの一人は、「大竹さんより役に立ちますよ。あんたはパンやケーキを作れないし」と言った。
ーーー6/24−−− 花のメルヘン
若い頃から所有している、ダークダックスの二枚組アルバム。繰り返し何度も聴いて来たのだが、最近になって気に掛かっている曲がある。「花のメルヘン」という曲。その歌詞に惹かれた。
むかし むかし その昔
小さな川のほとりに
大きな花と小さな花が
並んで咲いていた
大きな花は美しい
いつも楽しく唄う花
けれども小さな花は たった一人ぼっち
恋の陽ざし浴びて ふたつの花は
春の想いに胸をふくらませる
むかし むかし その昔
小さな川のほとりに
大きな花と小さな花が
並んで咲いていた
あの娘も この娘も この俺を
ひとめ見ようとここに来る
生きてることの楽しさは
おまえにゃわかるまい
大きな花さん聞いとくれ
たとえ一人ぼっちでも
僕には心の太陽が いつもかがやいてる
愛の息ぶきあびて ふたつの花は
春の想いに胸をふくらませる
むかし むかし その昔
小さな川のほとりに
大きな花と小さな花が
並んで咲いていた
命の源である太陽は、平等公平に陽射しをそそぐ。その事に対する気付きと感謝。そして、お互いを比べあうことではなく、自分がここに有るという事だけで満ち足り、感じる幸せ。小さい花に込める、作者の思いが伝わってくる。しかし、二つの花のやりとりに結論を付けず、何事も無かったかのように、元の情景に戻る。
なんとも大らかで、美しい景色である。